ケンタッキーに行こう、と思うことがある。だが結局はスーパーの唐揚げで十分だと感じてしまい、ますます出不精に拍車がかかっている。

子どもの頃は外食自体が贅沢で、唐揚げひとつも小さなイベントのように感じられた。けれど今では、半額弁当で日をつなぐ生活が続き、外食に対しての「特別さ」が薄れてしまった。むしろ、自炊のほうがよほど新鮮で、血の通った飯の旨さに飢えている自分がいる。生活の感覚が、どこかねじれている。

ケンタッキーといえば、父がテイクアウトを買ってきても、鶏とコールスローだけを食べていた姿を思い出す。あのコールスローは、水っぽいマヨネーズの食感が苦手で、子どもの頃の自分にはどうしても口にできなかった。そもそも酢酸系の調味料は昔から苦手で、マヨネーズもその代表格だった。スルメやエビフライの添え物程度なら大丈夫だが、たまごサンドが食べられるようになったのは三十代に入ってからだ。酢味噌はいまだに避けて通りたい調味料のひとつで、鱧や刺身こんにゃくも、梅肉がなければ箸が進まない。

味覚は親子でもまったく違う、そのことを幼い頃に知った。


夜中にふらりと出かけ、「少しだけ背徳感のあるメシ」に出会うことがなくなって久しい。
食べるだけなら牛丼チェーンで十分だし、役割としては果たしてくれる。けれども、どうしても深夜に開いている個人の店に足を運びたい気持ちがある。

深夜営業の個人店といえば、たいていはラーメン屋だ。だが、まれに定食屋を見つけると、つい感激してしまう。出てくるのは、思ったほど美味くもない冷えた飯だったりする。それでも、妙に心が満たされるのだ。ああいう店が近所に一軒でもあってくれたらと願う。


夏の京都。

朝八時前、まだ街は動き出していない。仏閣を巡り、出町ふたばへ豆餅を買いに行く。わらび餅と赤飯も手に取ったが、白蒸しは見送った。ふと、「そういえば最近とん蝶を食べていない」と思い出す。

昼が近づくほど、体も心も日差しに押されて目眩がひどくなる。塩気代わりに男梅グミを舐め、我慢せず喫茶店をはしごする。観光地には足を向けず、ひたすら人の少ない涼しい場所を探しては休む。汗が冷えて引いたあと、じんわりと頭痛が広がる。頓服薬の効き目がどうにも波打つのだが、理由ははっきりしない。

雑な京都も悪くない。観光客向けの小料理屋を避け、天下一品で腹を満たし、ホテルで缶酒をすする。チェーン店のアイスコーヒーを頼み、氷が溶けきるまで居座る。そうして、浮き足立たずに過ごすことが、自分にはちょうどいい。

かつて十年以上前、こんなふうに暮らしていた時期があった。その感覚を思い出しながら、今はまた、自分のリズムを整えている。


YouTubeでホラーゲーム「Outlast」のRTA動画を観た。
この作品は残酷描写が際立つことで知られ、恐怖よりも嫌悪感を呼び起こす表現が中心となっている。そのため、プレイ動画ですら拒否反応を示す人も少なくないだろう。

ところが今回の動画は、解説が丁寧に添えられていた。ストーリーの流れやゲームの背景を知ることで、恐怖の陰に隠れていた面白さが見えてきたのだ。従来のRTAはただ時間を競うだけの無言プレイが多いが、今回は物語とあわせて楽しめた点が新鮮でよかった。

ただし効果音などの演出では、不要に感じる要素も多かった。特定のミームだけを繰り返していて面白さを生み出すようなものではなく機械的な使い方だったため個人的には好みではない。それでも、淡々とした解説に加えて、冗談を交えつつ恐怖を和らげる工夫があったのは、とてもよい試みだと思った。

2025.08.17 / Category : 小噺

おマンゴー

初めて「好烏龍」というものを試した。
名前は知っていたが、想像以上にジュース寄りの味だ。マンゴー特有のねっとり残る後味がないのは好ましかったが、正直お茶らしさはまったく感じられない。

思えば昔、こうしたソフトカクテルといえば紙パックのジュースが定番だった。だが近年は、お茶系の甘い飲み物が市民権を得てきた気がする。その広がりのきっかけは、おそらくタピオカミルクティーあたりだろう。鉄観音を牛乳で割るという発想も、この十年ほどで知ったばかりだ。

中国茶や日本茶はストレートで飲むのが当たり前、という暮らしに慣れている身からすると、好意的にいえば異文化。率直にいえば下品――そんな感情が胸の中でせめぎ合う。抹茶と抹茶アイスは別物だと割り切るように、自分の中で線を引かないと、どうにも混乱してしまう。


今になって、日本文学を概論的に読み返している。正直なところ、大学の研究はアプローチ次第でいかようにも解釈できる。だから私は、基本的なデータの筋さえ合っていれば細かく咎めることはしない立場だ。

小林秀雄なども、今あらためて読むと、就職や自立の判断ができるようになった時代の空気に即して書かれていることが、文章と行間から見えてくる。二十世紀に入り、身分制度が崩れ、自分の判断で生きて行かねばならないことから、日本語の世界に多様な思想を持つ人々が現れた。その流れが現在につながっている。かつては自我より社会的役割が優先され、その古い価値観や、それによる軋轢に絡め取られた人々の姿を描くことが、文学的営みのひとつだったのだろう。

行間という言葉はしばしば恣意的に使われるが、私にとっては「文章構成と視点の誘導」そのものだ。たとえば、「牛がモーと鳴き、蝶が舞っていた」と書かれた場面で、ひろし君の病気が何か、あるいは彼の気分の沈み具合がどれほどかを読み取れる――そういう作りこそが行間の働きだと思っている。


初めて「Dr.ストレッチ」の店舗を見かけた。中に漂うのは、まるで体育会系のフィットネスジムのような熱気だ。つっかけでふらりと街に出た中年男性としては、どうにも足を踏み入れづらい雰囲気である。

スポーツを日常的にしている人には、この空気感はむしろ心地よいのだろう。だが、日頃から気の緩みが見えるような――たとえば、うっかり青っ鼻をつけたまま歩いているような――人間には向かない。そういう自分の姿を見ると、つい心配になってしまう。


羽田空港のトイレはいつ行っても清潔だ。
ただ、どうしても芳香剤なのか何なのか、サンポールのような匂いが漂っていて、そちらに意識を持っていかれてしまう。嫌いな匂いではないのだが、「なぜこの匂いなのだろう?」という疑問ばかりが頭に浮かぶ。


最近は、10分以上あるエンタメ以外の動画は、Geminiで要約させ、気になる部分だけ補足を求める――そんな使い方をしている。おかげで、だいたい5分もあれば内容を把握できる。

解説動画は、見ていても文章にすると「だから何?」という説明だけが頭に残らず、肝心な部分が抜け落ちることが多い。そこで必要な情報だけを抽出するようにしている。心地よい話しぶりなら最後まで見るが、伝えたいことをただ朗読しているだけの動画も多く、どうしても文章で読んだほうが早いと感じてしまう。

特に一般公開されている解説動画では、「間違えてはならない」という意識から、素人らしい人間味は排されがちだ。そのため、動画であっても情報量は限られる。加えて、テロップや演出は緊張感に焦点を合わせがちで、内容を伝える力よりも、漠然とした一体感の演出に傾いてしまっている。


少し前、国宝展に行ったときのこと。
高橋英樹の演技が「すごく良かったなあ」と思いつつも、何の場面だったかがどうしても思い出せない。いいドラマの一場面のような短い映像で、たしか「幼くして亡くなった息子を思い出す」といった解説があったはずだ。

ただ、その映像はプロジェクションマッピングで巨大なスクリーンに拡大投影されていて、どうにも視線の置き場が定まらなかった。落ち着いて焦点を合わせるというより、目の前に大きな液晶画面を突きつけられてまじまじと見ているような状態。頭と目がうまく噛み合わず、内容が記憶に定着しない。

しかも、その時の自分は心のどこかで「金印を見る」ことだけを楽しみにしていて、気持ちも落ち着いていなかった。贅沢な体験だったはずなのに、どうにも釈然としない余韻が残っている。


近所で、ようやくセミが鳴き始めた。

SNSでは「都内で蝉の声が聞けなくなった」という話題を見かけるが、今週になってようやく耳に届くようになった。もともと虫の数が多くない地域なので、こういうものなのだろうと思う。

去年、熊本に出かけたときは、耳を圧するような蝉時雨に包まれた。それと比べれば、この静けさは「いない」と感じても無理はない。


Amazonで、冷凍して使う輪っかを買った。凍らせて首に挟み、外を歩きながら冷却して熱中症のリスクを下げるという代物だ。

……が、持続時間は10分。
その後は「なんとなく冷えている気がする」程度で止まってしまい、何時間も効果が続くようなものではない。

ついでに、ペルチェ素子付きのハンディ扇風機も買った。これも、確かに冷たい風が来ているような気はするのだが、それがペルチェのおかげなのか、単に汗の気化を促しているだけなのか、判然としない。



2025.08.09 / Category : 小噺