文学フリマに行く(予告)

読む側として、である。

Twitterで「文学フリマ」のタグを辿っていると、実に人間味に満ちている。
「話が長い」「文字数制限で表現が極端になって、読者がポカンとする」「描写が散らかってる」「結論が見えず、読んでる側がイライラする」「お前はインフルエンサーでもセレブでもないのに、なぜそんなに偉そうなんだ?」

——そんな投稿がごろごろ出てくる。これが心を落ち着けてくれる。ここには、世界の“ゆるさ”を失って複雑になっていく、なんとも言えない温度がある。

精読を求める姿勢が堂々巡りになるのも分かる。だからこそ、開き直りのスキルが必要だ。途中で読むのをやめてもいい、そう思えれば怖くない。理解できないことに対するプレッシャーがあっても、「最初の一文で読み手を導けていないなら、そっちが悪い」と、強い気持ちで受け止められる。熱量もなく、ロマンスもろくに語れない文章に対して、興醒めしても構わないのだ。

そしてもう一つ、屋号や本のタイトルには、やはりセンスが出る。
名前は内容を映す鏡だ。そこにズレがあると、「説明と違うな」「情報が足りないな」と即座に判断される。10年以上曲も作ってないのに、よく分からないレーベル名だけ掲げている自分には、ちょっと堪える発見だった。

それにしても、今日は夕方に起きてしまった。
焼きそば食って寝る。


倖佳の前を通ったら、やっぱりというか、大将のブチかまし精神が全開で、メニューがさらに増えていた。正直、ちょっと心配になる。

勉強熱心で、どの料理もハズレなし。

ただ、人員が減ってワンオペでの拡大営業となれば、さすがに無理がある。奥さんは産休中だし、もう少し「頑張るのはやめます」くらいの調整をしてもいいと思う。無理なく続けてほしいのだ。

案の定、味は抜群だった。だからこそ、体力の続く限りではなく、ずっと続けられる形であってほしいと願っている。


『Doom The Dark Ages』、どうにも『Doom Eternal』寄りの不穏な空気が強すぎて、今のところやる気が起きない。

『Doom 2016』を繰り返し遊んでいた身としては、今回のは“DOOMの皮をかぶった別のゲーム”、それもmodみたいなものに感じてしまう。『Doom eternal』の時点で既に「任天堂か?」と思うような陽気なパズル要素が目立ち、あの緊張感ある世界観を壊していた印象が強い。プレイ中も、鬱陶しさの方が先に立っていた。

今回さらに拍車がかかっていて、パシフィック・リムばりの巨大ロボまで出てくる。もはやソリッドなFPSではなく、タイミングゲーのようなものに思えてしまう。武器も「これ、doomだっけ?」と首をかしげるものばかりで、好き勝手やってるなあ……という感想になる。

今のところ、セールのときに買って、まあ確認だけはしておくか、くらいの温度感だ。


レントゲンでバリウムを飲んだはいいが、肝心のクソが出てこなくて焦った。

仕方なく風呂で体を温め、最終手段のイチジク浣腸を投入。おかげで大事には至らずに済んだ。水分も取っていたし、その日のうちに呪いは解けた——と思っていた。

だが翌朝、まさかの寝起きで再び呪いの声を聞くことになるとは。バリウムの試練は、そう甘くなかった。あれはもう、ストランドとボイドの25%デバフだ。

来年は胃カメラにしよう。


最近は、アヴァンギャルディの動画を見ることが多い。

もともとはアカネキカクで、あさちゃんの大阪万博の動画などをきっかけに登美丘高校ダンス部にハマっていた。ただ、部活動という形には限界もある。未成年をメディアに出すことへの倫理的な問題もあるし、継続的に表現を続けていくには難しさがつきまとう。

そんな中で、プロとして進んだメンバーたちが自らの表現を形にし、アヴァンギャルディとして登場したのは、本当に良かったと思っている。

コロッケが指導する動画にも、多くの示唆が込められていて、表現の方向性が自然と一致していく、その凄さに驚かされた。

エンターテインメントとしての側面と、そうではない本質的な部分が丁寧に切り分けられて語られていたのも、印象深い。

こうした表現に触れられたこと自体が、素直に「見てよかった」と思える経験だった。


これまで、主流のカルチャーにあまり触れてこなかったせいか、「最近かっこよかった俳優は?」「心に残った名シーンは?」といった問いに、すぐ答えが浮かばないことが多い。想像力や記憶の回路に、どこか偏りがあるのだと思う。

現実の中で、意味のわからない駆け引きや心理戦に日々さらされていると、漫画のようなフィクションを開いたとき、まず違和感や気持ち悪さのほうが先に立ってしまい、物語に入り込めなくなる。読み続けられなくなったのは、きっと現実のほうがよほど非日常だからだ。


2025.05.24 / Category : 小噺

オブジェクト配置

仕事で、10年ぶりにVegas Proを使うことになった。最新のバージョン——22の体験版を試したが、驚くほど10年前の使いづらさのままだった。

そもそも日本語ファイルすらまともに入っていない。入れられるのかもしれないが、旧バージョンのプロジェクトとの互換性も怪しい。過去の資産を継承しない姿勢が見える。使い方は、YouTubeを頼りに何となく思い出しながら数時間で簡単な動画を一本仕上げることができた。

基本的に、レイヤーを置いてカットして並べるだけなら10分のレクチャーでどうにかなるソフトなので、紙芝居のような動画を作るには楽。ただ、拡大縮小や配置といった操作が独自仕様すぎて、相変わらず面倒だったのを思い出す。

しかも、ここまでバージョンを重ねても、いまだに丸や四角すらまともに配置できないことが分かって、完全にやる気が消えた。ベクターデータの扱いも一応できるようだが、直感的ではない。複数の図形を1つずつレイヤーで配置する仕様のせいで、タイムラインがすぐに見づらくなる。

言い換えれば、PowerPointのような感覚で使える機能は皆無。素材を切って貼る以上の用途には向かない。唯一の救いは、プロジェクトを他ソフト向けに変換できる機能だが、それすら扱いづらい形式にされていたら、もう触らない方がマシだろう。

次に動画を作るときは、Premiere Proを使いたい。

あれは少なくとも、そこまで変な仕様ではなかったはずだ。昔はマスターコレクションを契約していたが、今はPhotoshopしか使っていない。というのも、秘蔵の海原雄山コレクションを整えるには、Photoshopの方が圧倒的に向いているからだ。

Affinityも試しているが、設定がうまく記憶されなかったり、細かいところを毎回いちいち自分で調整しないといけないあたりが、どうにも面倒でなかなか馴染まない。


最近、昔を思い出すようにクーロン黒沢の動画を見るようになった。

あの温度感、アングラなのかそうでもないのか分からない、淡々としたフラットな語り口が心地いい。内容は相当エグいエピソードばかりで、間違っても万人に勧められるものではない。真面目な人が見たら普通に寝込むレベルだと思う。

DJ北林とかミスターPBXとか、最初は誰かの覆面ペンネームかと思っていたら、まさかの本人登場。てっきり阿鼻叫喚、キョーフのズンドコになるかと構えていたが、意外とヌルっとしたテンションで拍子抜けする。この肩透かし感すら味になっている。

そこから派生して、丸山ゴンザレスや村田らむといったライターたちの「答え合わせ」的な動画にも手を伸ばしている。当時のバックパッカーがどう見られていたのか、どんな扱いだったのか、いまになってようやくその視点がわかってきた。まあ、ろくなもんじゃなかったな、って感想に落ち着く(小並感)。

年を重ねるにつれ、「別世界の話」だと思っていたことが、実は地続きだったと気づいてしまう。その感覚にゾッとするようになった。そりゃ戦争もセックスもなくならないわけだ、と妙に腑に落ちてしまうあたりが、また怖い。


老化について、記録を残しておく。

若い人にも伝わるような「老化とは何か」を考えながら書き出してみると、これまでに経験したことのない、バグのような現象ばかりが浮かんでくる。

  • 風呂に入って体を温め、ようやく眠ると、そこで初めて疲れが抜ける。とにかく回復までの手順が多くて長い。
  • 空腹と満腹が、なぜか同時に襲ってくる。腹が減ったと感じてみかんをひとつ食べると、それでもう「もういいや…」という気分になる。
  • 寝不足になると、決まって吐き気が止まらない。リカバリーも効かず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
  • 食事をして満腹にはなるのに、「食べた」という実感や満足感がまったくない。味や量の問題ではない、もっと根の深い欠落感。
  • 気がつくと、自分がとても臭くなっている気がする。これは中年特有かもしれないが、「何か悪い匂いがしていないか?」という警戒心が常にまとわりつくようになる。

老化とは、「知らない仕様が次々と増えていくOSを、説明書なしで使い続けること」なのかもしれない。


最近、手軽にゲームをするという環境がまったく無くなってしまった。

たとえば『Destiny 2』を気軽に起動して、ふらっと数戦プレイできるようなゲーミングPCがあれば理想なんだけど、どれくらいのスペックが必要なのかすら、もはや見当がつかない。そういう情報を追うのも少し億劫になってきていて、余計に距離が空いてしまう。


大阪万博に行ってきた。

ミャクミャクの人形を買ったので、個人的な思い出としてはそれで十分。会場では、声に反応するタイプの人形は売っていなかったのが残念だった。レネの人形も検討したが、チェコのパビリオンでしか売っておらず、しかも30cmほどのサイズが1種類、9,000円で販売されているだけ。もう少し小さいサイズがあれば買っていたと思うが、持ち帰りが大変そうで断念した。時間と荷物に余裕のある人に託したい。

万博のパビリオン予約は公式アプリ限定とのことだったが、この予約システムがとにかく煩雑。何が空いているかを一覧で見られないし、予約失敗すると最初の画面に戻される。予約しようという気持ちがどんどん萎えていった。結果的に、会場内を散歩して回ることがメインの思い出になった。

おそらく、9月のような人の波が落ち着く時期が、一番楽しめるタイミングなのだと思う。並ばずに各所を見学できるほうが、経験としてはずっと豊かだ。今のように「予約が前提」で「空気感も冷えた」状態では、どこか気持ちが置いてけぼりになる。

目玉とも言える輪っかには登ってみたが、内側のパビリオン全体は見渡せず、むしろ入口ゲート側のような、開けた展望のほうが眺めとしては良かった。

万博に対して「何かを見聞きしたい」という期待があると、費用に対して割高感は拭えない。一方で、マレーシアやスペインのダンスイベントのように、並ばずに楽しめる賑やかな催しは素直に良かった。北欧のパビリオンにも入ってみたが、暗い部屋でパワポ動画を見て、そのままムーミングッズを買って出るだけ。解説でもあれば印象は違ったかもしれないが、何もないまま数分で退出した。

建築やパビリオンのデザインを見て回りたい人には、それなりに楽しいはず。ただ、子連れだとかなりハードな一日になるだろうというのが正直な感想だった。


実家に帰る。

「静かに狂っていく」という言葉を噛みしめる。ここでの「狂う」は、錯乱とか妄想といった劇的なものではない。むしろ、今まできちんと噛み合っていた歯車が少しずつずれていき、調子が合わなくなる——そんな意味合いだ。

親子関係そのものは変わっていない。けれど、親が少しずつ「知らない人」になっていく感覚がある。過去と現在の記憶の境目が曖昧になり、最近の出来事と昔のことがごちゃ混ぜに語られるようになっていく。その様子を目の当たりにすると、血縁でさえも、だんだんと関係性のない他人へと遠ざかっていくような錯覚に陥る。

たとえば、自分のこと。断片的に覚えてはいるようだが、こちらが初めて聞くような話もぽろっと出てくる。母がふと、「あんたが赤ん坊のときに障がいを持たせてしまったかもしれない」と懺悔のように語り始めた。昔から、息子が階段から頭から落ちた——という記憶だったが、実際は少し違っていたらしい。

赤ん坊だった自分が、子ども椅子に座ったまま足を出し、テーブルを蹴ってひっくり返り、頭から床に落ちたのだという。以前聞いていた話とは食い違っていた。母がそのことを語るとき、どこかバツが悪そうで、自責の念のようなものもにじんでいた。

けれど、最近のことをほとんど覚えていない一方で、こうした過去の記憶が突然あらわれてくるのを見ていると、親の中でも記憶の断捨離が始まっているのかもしれない、と思った。そしてそれに伴って、かつての親子としての関係性や記憶も、少しずつこの世から消えていっているような感覚になり、言葉にならない悲しさがじわりと込み上げてきた。

2025.05.07 / Category : 小噺