モラル

食が細くなった。
脂身を口にすると、すぐに体調が崩れる。以前とは明らかに違う。老いが、確実に身体に出ている。

かっぱ寿司で、いつものように皿を重ねようとしたが、途中で気分が悪くなった。満腹を待たず、胃が先に拒んだ。かつては限りなく食べられた。満腹も、節度も、どこか他人事だった。

思えば、その感覚こそが、太る理由のひとつだったのだろう。無制限な食欲は、若さに支えられた錯覚だったのかもしれない。


煮浸しをつくる。

BGMは大江千里「夏の決心」。
公園の水場では、子どもたちが笑い声を上げている。その横を通り抜けて、スーパーへ向かう。働かず、ただ暮らしを整えて過ごしたい――そんな願いが、夏の陽に黒くなるまで炙られる。

台所は、冷房の風が届かない。
安普請の鉄骨からの熱を感じつつ鶏肉、ナス、ししとうを順に炒め、ビミサンとバルサミコ酢で煮る。仕上げに胡麻油をひとたらし。火を止め、冷まして、煮汁を染み込ませる。

常備菜用の器はとうの昔に処分した。
かわりに、手近なステンレスのボウルを使う。それで十分だ。あとは、冷蔵庫に任せるだけ。

昼下がり。ぬるい煮浸しをひと口。

夏の疲れが、少しやわらぐ。


旅行先で買ってよかったアイテムを知るのは好きだ。
けれど、レビュー動画ばかり見ていると、ときどき我に返る。自分は何を見せられているのかと。

実際に役立ったもののひとつに、部屋用のサンダルがある。シリコンゴムの、薄手の突っ掛け。濡れてもすぐ拭けるし、柔らかくて硬い床でも足に響かない。使い勝手がよく、宿ではもちろん、帰宅後もベランダ用にそのまま使い続けた。

大事に保管しようと思わない気楽さもよかった。ビルケンのような厚いものは荷物になる。こういう時は、とにかく薄いほうがいい。


AIも使わず、ただキーボードに向かって思いつくままに日記を書いている。
けれど、あまりに文章が乱れていて、読み返すのも億劫になることがある。書くことに集中するあまり、内容の整理もせず、推敲もしていない。脳内の言葉を、そのまま指先から垂れ流しているだけだ。さすがに、これは見直したほうがいいのかもしれない。

だから、AIで整えていく。

2025.07.29 / Category : 小噺

落日

驚くほど、一日が早く過ぎる。
何もできないまま日が暮れ、気づけば夜になっている。以前は、終わらない仕事に追われ、時間が止まったような感覚の中にいた。
今は逆だ。
手につかないまま時間が流れ、何も積み上がっていないという焦りだけが残る。

仕事が進んでいないことも分かっている。だが、何をすればいいのか、その輪郭がつかめない。ただ、無力感と並んで座っているような感覚が続いている。


スーツケースについて考える。

消耗品だと思っているので、ブランド物を買う気にはならない。昔はリモワにも惹かれたが、旅行の頻度や使い勝手を突き詰めるほど、試行錯誤してこなかった。毎週のように出張があれば、入れ替える面倒もあって、いずれ慣れてしまうのだろう。けれど、たまに使うとなると、かえって余計なこだわりが頭をもたげる。

大きなサイズに関しては、布製が一番いい。軽さは正義だ。
雨を気にすることもあるが、海外で歩き回って宿を探すような旅はもうしない。いま持っているもので、十分だと思っている。

迷っているのは、40Lと50Lの中型だ。
50Lは微妙な容量で、正解が見えない。今使っている布製も、軽いわけではなく、どこか中途半端な印象がある。


オモコロの「素朴-1グランプリ」を見た。巖手屋の南部せんべいが話題になっていた。あれは、軽くつまむつもりで手を出すと、一袋なくなっているタイプだ。

特に、胡麻のものが好きだ。


DOAの紅葉を研究している。
突き詰めると、不知火舞との違いは、髪を結ぶあの飾りの色に行き着く。

たったそれだけで印象が変わる。色が異なるだけで距離が生まれ、白にすると急に“それっぽい”別人になってしまう。細部を追えば、髪型の分かれ方も想像以上に繊細で、曖昧にしておくと、どこかで見たような「くの一」枠に吸い寄せられていく。思った以上に、際どいところで均衡が保たれているのだと知る。


『Destiny 2』の新シーズンが始まった。

だが、翻訳の粗さが目立つ。肝心なシーンの演出よりも、訳文の不自然さの方に意識が奪われる。おそらく、機械翻訳の出力をそのまま読ませているのだろう。演じる側にとっても、聞く側にとってもつらい。業務品質として見ても、かなり低い。

今回のシーズンでは、物語の初動として伏線が多く仕込まれている。『Destiny 2』に特有の詩的な表現と専門用語の多さもあって、翻訳の質が内容の理解に直結する。うまく訳されたときはそのニュアンスに感嘆するが、今回はその逆。意図が伝わらないどころか、逆に混乱を招いている。

登場人物では、オリン、イコラ、ロディの三人が中心だが、特にオリンのセリフがひどい。全体に説明調で、なおかつ支離滅裂。多重人格なのか、意識障害なのか、そもそもどういう状態なのかが伝わらない。イコラやロディは普通に会話をしているのに、プレイヤー側だけが置いていかれている。訳が原因で、演出意図そのものが読み取れない。

イコラについては、過去のシーズンと同様の口調が保たれている箇所もあり、大きな違和感はなかった。だが、それでも「fix」を「固定する」と訳したり、一人称が突然「僕」になったりするのは致命的だった。台詞に対して素人が首を傾げるレベルの誤訳が平然と残っており、裏側の事情が透けて見えるようだった。

ロディはキャラクター性が曖昧な分、妙なセリフも許容されやすい。
「Ay, no」という台詞には、さすがに日本語の会話には存在しないと言いたくなったが、彼のおかげでイコラの意外な一面が見えたのは収穫だった。

全体を通して、日本語が不自由な人が関わっているのではないかという印象が拭えない。チェック体制や翻訳プロセスが不十分なまま進められているのは明らかだ。アンケートは取っているのに、業務の改善が行われていない。むしろコスト削減の口実として、品質評価の形だけ整えた「出来レース」のようにも見える。

ゲーム内容そのものは、明らかに『Destiny 1』を意識した設計が見える。直線的なマップ構成、大量のクエスト設計など、過去作に通じるものが多い。

UIについては、新たに導入されたダッシュボードが煩雑だ。従来のキャラクター画面に役割が集約されていたものを、無理に分類しようとした結果、情報へのアクセスが逆に不便になっている。もしZabbixのような監視ツール的な仕組みが導入されたら面白いかもしれないが、通信設計は相当複雑になるだろう。


※以下、ネタバレを含みます。

イコラの登場するカットシーンで、「CANINE」の中に浮かぶ「NINE」の表記が印象に残った。
canineという語は、もともと「犬科の動物」を指すが、日常ではペット向け製品などにも使われる言葉だ。しかし、この場面での語感は文脈的にもう少し荒いと思えた。「従順な者」「権力に服従する存在」への蔑称としての響きも含まれていたように思う。

自らをそこまで貶めて語る必要があるのか。
あるいは、その表現が示すのは、ナインに敵対する第三の存在――イコラに干渉し、警告を発する何者かの意図ではないかとも思える。

電話の着信シーンも印象的だった。誰かの声が割って入り、イコラは通話を取れなかった。ナインが他者の人生を操作できる存在であることが前提なら、彼女が強制的に列車による異世界転生も必要なかったはずだ。さらに「なぜ車道に列車がやって来たのか」という点には、もう一段階深い意味がありそうだ。彼女の記憶、あるいは前世の記憶に、列車が結びついているのかもしれない。

イコラの人物像は、転生前のスキルセットから想像される。
1970年代、既に結婚・出産を経て、自家用車を持ち、会社に自室を備え、私服で通勤できた女性。当時としては、目が回るほどの社会的達成である。映画『ドリーム』が描く時代と比較しても、彼女は並外れた「強い人間」として描かれている。仮に現代地球に存在するとすれば、2025年現在、イコラは75歳以上の後期高齢者という計算になる。

時代設定としては、ロディが姿を消したおよそ100年後、2070年頃に人類が火星に進出した可能性が示唆されている。5年以内の実現は難しいというのが正直な印象だが、その未来に向けた布石として描かれているのかもしれない。

PC Gamerでも報じられていたが、イコラの職場にある諜報機関「inventio exploratio observationis conexus」のポリシーが、ゲーム『Control』との関係を匂わせる。ただし、『Control』の方は「inventio exploratio imperium」であり、明らかに異なる世界線と見てよさそうだ。中央に傷を負った惑星のような構造が、トラベラーを思わせる描写もあった。何か似たビジュアルを思い出せそうで、まだ届かない。

脇の風景にあったガソリンスタンド併設のダイナー「Moon」も気になった。
今後、舞台として登場する可能性が高いだろう。また、電車の描写も不思議だった。そこは信号のある交差点で、踏切ではない。にもかかわらず電車が通った。あの描写が物語上、回収されるのであれば、非常に興味深い展開になる。

花の描写について。
娘の存在が直接描かれることは、おそらくない。あれは記憶の断片を象徴する小道具であり、ロディではなく、ナインの誰かが誘導の意図をもって仕組んだものと考えるのが自然だ。

2025.07.20 / Category : 小噺

アジア

NoctuaのNF-A14 ULNと、280mmの簡易水冷クーラーを購入し、急いで静音化に取りかかった。低回転ケーブルは、単なる抵抗でしかない。そのぶん発熱につながるので、使用は見送った。

ポンプ以外は、回転数が1000rpmを下回る。結果、部屋の冷房よりも静かになった。ポンプの音だけは、どうにもならない。作業を通してはっきりしたのは、静音を優先するなら、280mmでも360mmでも大差はないということだった。


PCを構築する際、昔に比べて選定の順番が複雑になった。一度、整理しておく。

まず、使いたいCPUを型番レベルで確定させる。
そのうえで、チップセットのグレードを選ぶ。
HDDやSATAストレージの台数も、ここで決めておきたい。

CPUクーラーは使用環境に応じて選定する。
ケースファンの数や、正圧・負圧のエアフロー設計もこの段階で方向性を定める。

搭載するビデオカードのメーカーを決め、
それに合わせてPCケースを選び、
最終的にマザーボードの型番を確定する。

メモリを確保し、マザーボードに搭載するM.2ストレージの構成も決めておく。
OS用と、必要に応じてゲーム・AI生成用途などの分離を視野に入れる。ここまで決まっていれば、パーツの買い間違いはほぼ防げる。

個人的な傾向としては、現在はMSIを選ぶことが多い。ASUSは耐久性に疑問があり、AsrockやGigabyteは完成度に不安が残る。結果的に、消去法でMSIに落ち着いている。ビデオカードについても、動作保証という願掛けの意味も含めてMSIを選んでいるが、実際のところ、同じ企業名でも事業部が異なれば開発方針も別物だろう。ZotacでもPalitでも、静音性や耐久性を優先して選ぶのが現実的かもしれない。

M.2の冷却ファンには消極的だ。
限られたオンボードのファンコネクタを奪われたくない。SATA電源から取れるタイプがあっても、コネクタが大きく扱いづらい。将来的にM.2専用のファンピンが標準化されれば、検討の余地はある。今はARGBのピンに冷却ファン用の端子が置き換えられれば良いのにとすら思っている。それまでは、大きめのヒートシンクで凌ぐつもりだ。

メモリに関しては、体感で差を感じることは少ない。容量さえ確保していれば、大きな不満はない。64GBあれば、当面は問題ないと考えている。DAWなどの用途では負荷のかかるケースもあるが、
仮に生楽器の音源に莫大なスペックを投じるのであれば、その分の予算で人に演奏を依頼した方が、結果的に多くの人が幸せになるのでは――そんなふうにも思っている。


成り行きで、Raspberry PiにZabbixサーバーを立てることになった。
しばらく手持ち無沙汰だった本体に、ようやく嫁ぎ先が見つかり、少し安心する。

ベンダー側の事情で選択肢は限られたが、以下のページを参考にさせてもらった。

https://zenn.dev/aldente/articles/87404fa78379da

作業を進めながら、次に何をすべきかを自然と考えられるようになった。

なお、今回初めて nano を使った。
触ってみて、vi よりも直感的で、自分には扱いやすかった。


DockerにNextcloudを入れてみたが、まだ落ち着かない。

タスク管理――いわゆるBTSやITSのようなチケット管理の機能が見当たらない。また、業務フローを可視化するようなBPM的ツールも見つけられていない。

このあたりは、もう少し調べる必要がありそうだ。とはいえ、より根本的な課題として感じたのは、アップグレードの扱いだ。WordPressのように、GUIから更新できる仕組みが望ましい。

さらに言えば、外部へのバックアップ機能もほしい。
もしかすると存在しているのかもしれないが、少なくとも「小学生でも扱える」レベルのUIで提供してほしい。機能の有無よりも、運用の敷居が気になっている。


SandiskのUSBメモリには、もはや「信頼できない」という烙印を押すことにした。そう決めてから、ようやく心の安定を得られたように思う。

1年すら持たないのでは、と思うような耐久性だ。
品質の劣るダイを、もったいない精神で製品化したような印象が拭えない。競合と比べても、明らかに耐久性が劣っている。

多くの場合、1年ほどで認識不能になったり、書き込みができなくなったりする。購入元は複数にわたるが、仮にすべてがコピー品だったとしても、「それが原因だ」と言われれば、反論の余地もない。だけど、正規品の高いものを買って確認しようという気持ちはもう、どこかに消え去ってしまった。


竹シーツを買ってみた。

叔父夫婦に「夏はあれがあるといい」と勧められ、麻雀牌のようなデザインのものを試してみた。放熱性はたしかに高く、触れた肌から熱がすっと抜けていく。離れた途端、人肌の温度が残らず、冷たさが持続する。だが、それが良いとは限らなかった。

夜は熱中症を避けるため、クーラーをつけたまま寝ている。
その環境下で竹シーツを使うと、寝返りのたびにひやりとし、体の熱が奪われていくような感覚になる。体が熱を取り戻そうとしてか、不随意の動きが増え、目覚めたときにはだるさが残る。そうして今は、使用を控えている。

さらに、シーツの角が寝返りのたびに肩や腕を圧迫し、痛みが気になることもあった。起き上がるときに手をついた感触も硬く、快適とは言いがたい。タイルの上でも平気で眠れる人なら問題ないのかもしれない。

冷たい寝具が好きな人には、よくできた製品だと思う。けれど、自分には「体を温めて眠る」ことの方が、深い休息につながるらしい。よいものなのに、まるで自分の生活に馴染まない――そんなこともあるのだと、少し驚いている。


病院での診察で、どうやら難病の可能性があることが分かった。ただし、健康に直接の影響は今のところないらしい。症例が少ないため、名称が与えられている――そんな印象のある病名だった。

今後は精密検査を受け、病気として本当に深刻なものなのかどうか、確認していくことになる。現時点では、判断がつかない。


KERで以前取り上げられていた「Cinnamon Toast Crunch」を試してみた。思った以上に良い味だった。印象的だったのは、動画の中の感想と自分の印象がほぼ重なったことだ。

こうした紹介は、得てして「本当にそうか?」という疑念が残る。登場人物の味覚と、自分のそれが一致しているのかは分からない。実際、大泉洋の紹介には何度も裏切られた。「おにぎりあたためますか」のロケ地を訪ね歩いてきたが、最後まで彼の味覚とは交わらなかった。多くの人が絶賛する中で、自分だけが頷けない。そういうことがたびたびあった。

最近では、オモコロにも少し同じ距離を感じている。たとえばピェンロー鍋の特集動画など、読み物としては面白い。だが、味覚の共鳴という意味では、自分とは遠い。楽しさの中に、わずかな孤立感が残る。

食べてきたもの、育った文化が違えば、味覚も異なる。そう思って、さまざまなコンテンツを試してはいるが、その多くが商業的な意図や演出に引っ張られており、共感を得るのが難しい。かつて「食べログで味覚の近いレビュアーを探せ」と言われたこともあるが、そのために他人の自意識の海を渡るほど、飢えてはいない。

そういう意味で、KERのKevinは、感覚が近いように思う。試しに彼を指標にしてみたら、驚くほど重なるところがあった。ブルーラズベリーの好みや、細かい味の傾向にも共通点が見える。

いまでは、参考にしている。


『Rogue Genesia』プレイメモ。

「Getting Sciency」と「Particle Physics」は、ガンスリンガーを選び、アナクロ(スーパースローモーション)とアクティブタレント(Fキーで発動する乱射技)を併用するのが正解だった。

弾速についての細かい仕様は不明だが、ハンドガンやSMGで問題なく達成可能。特定のカードでなければならない、という縛りもなかった。素直に育てれば、あっさりクリアできた。

結論としては、想像していたよりずっと簡単で、やや拍子抜けした。

2025.07.05 / Category : 小噺

自動下書き

ようやく、怒涛の1ヶ月が終わった。

今の仕事においても、これほど落ち着かない暮らしぶりは珍しい。忙しさはまだ続いているが、毎日会社と遠方を行き来するような、中途半端に消耗する日々はひとまず終わった。それだけでも、少し救われた気がする。

とはいえ、あの生活が3週間も続くくらいなら、いっそホテル暮らしにしてほしかった。リモートで仕事が許されるのなら、自宅かホテルで静かに集中したかった。そう思いながらも、ひとまず無事だったことに安堵している。


身の回りで、ささやかな熱病が流行している。先々週に体調を崩したのも、もしかすると誰かからもらったものだったのかもしれない。

都内在住の方は、どうかご用心を。


自宅にデスクトップPCを置いているが、場所を取るたびに鬱陶しさを感じるようになった。そのたびに思う。結局は、持ち運びのしにくいハイエンドノートを買う未来しか見えてこない。

音声入力で脳内を整理することも増え、ChatGPTを使うときは、オーディオ周りの準備が煩雑で、ついThinkPad X280を立ち上げてしまう。しっかりしたオーディオ環境を整えようと、ヘッドセットやコンデンサーマイクも試したが、むしろ準備の手間が増えてしまい、使う気になれなかった。

便利さを求めたはずが、不便が積み重なっている。

そんな不快な感覚が、ふとした瞬間にやさしくのしかかる。


手指のささくれがひどい時、マルチビタミンのサプリを数日飲むと、嘘のようにおさまる。それが続くうちに、自分の栄養状態を測るひとつの指標として見られるようになった。ささくれのない生活を心がけたいと思う。

最近は、食物繊維が明らかに足りていないことに気づき、イヌリンを摂るようになった。ところが、食事制限の影響で栄養のバランスが崩れたのか、体が「うんこが少ないけど、どうなってるのか?」と訴えてくるような便通になってしまった。

明らかに腸は高回転で稼働しているのに、出てくるものが追いつかない。人体の神秘というより、ちょっとした不調の再現実験のようだ。もはや、あとはケツからブラックホールが現れるのを待つだけかもしれない。

お食事中の方は、すみません。

マニアの方、お待たせいたしました。


昼休みに、秋葉原でPCパーツを急ぎ購入。

仕事には一切影響がない――これぞ、西村京太郎トラベルミステリー。

ただ残念なことに、俺とまったく関係のない誰かが、既に死んでいる。これもまた、西村京太郎トラベルミステリーの真骨頂である。嘘。

近ごろ、低回転のケースファンが市場から姿を消しつつある。静音PCを組むには厳しい時代だ。不可能ではないが、BIOSでファン設定を細かく詰め、定格を落とし、回転数を下げる――そうしなければ、まともに使えない構成が増えてきた。

5インチベイのファンコントローラーも消え、「静音性」を追求する選択肢はますます狭まっている。140mmで2000回転が当たり前の時代など、誰が予想しただろう。

仮に低回転化を図ったとしても、メッシュタイプのケースでは音が抜け、効果は薄い。一方、窒息ケースの新製品は絶滅し、O11系のクローンが市場を占拠している。やれることが減っていく。

簡易水冷を使っても、360mmはファンが3基必要になる。これをハブ経由で制御すると、回転数が不安定になる。SATA電源から12Vを引いた場合、ファンは制御不能なまま定格で回る。USB接続型のファンコンを搭載したハブもあるにはあるが、付属ユーティリティが貧弱で、ゲーム起動時にライティング干渉を起こす。ひどいときには、起動すら阻まれる。

そうなると、280mmにサイズを抑え、ファン数を減らし、マザーボードに直結するのが現実的だろう。だが、MSIのCarbonクラスですら制御が不完全だったのは意外だった。昨今はケーブルレス連結といった新方式も出てきたが、PWMの存在意義そのものが曖昧になってきているように思う。

ARGB制御の煩雑さも加わり、結局は「マザーボードに取り付け可能なファン数」を前提にケースを選ぶ方が賢明かもしれない。ファンを5基ほどに抑えるのが現実的な上限。

そう考えると、360mmのラジエーターはやはりバランスが悪い。


細かなことでも、ChatGPTと壁打ちしながら企画を練らないと、どうしても言動の質が落ちる。場当たりで動くことが増え、マインドセットもワークフローも定まらない。

それらがない状態では、糸の切れた凧のようなものだ。

ただ、それを「自由にやっていい」と言い換えて、自分なりに挑戦へと転じていかないと、どうしてもモチベーションが続かない。

2025.06.20 / Category : 小噺

台湾、ゴリゴリ旅

台湾に行ってきた。ほとんどの時間を仕事に費やし、息をするように動いていたため、記憶に残ることは少ない。

観光ではなく、ずっとComputexの会場にいた。今年は、AMDの影すら見えなかった。新作ビデオカードは発表されていたが、目新しさは薄く、発表されたのも5060番台程度の実用的なもの。会場全体が、nvidia一色に染まっていた。Intelもまた、CPUに関しては特に強いメッセージを打ち出すこともなく、かつての勢いからの退潮を感じさせる展示だった。

一方で、ジェンスン・ファンが来台した瞬間、ローカルメディアは一斉に速報を出し、その訪台に合わせるように、nvidia本社やスパコンセンターを台北に設立するという爆弾発言。

すべてが用意された流れだった。

たまたま、会場で本人が目の前を通り過ぎていくのを見た。台湾の人々からは、まるで現人神のような扱いを受けていた。その熱気と視線の強さが、いまも記憶に焼きついている。

数兆円規模の産業投資が数日で台湾に流れ込む――その現実を前にすれば、熱狂は自然なものだろう。

ジェンスン本人は、どこにでもいそうなフレンドリーな“おじさん”だった。カリスマとしての圧はなく、それがむしろ現在の“ロールモデル”と呼ぶにふさわしい佇まいだった。余った炒飯弁当を出待ちの群衆に配ったという報道もあった。演出の域を超え、生活感のある人として、確かに地続きの存在に見えた。

アメリカと中国、どちらもnvidiaにとってはもはや“ベストパートナー”ではなく、むしろリスクである――そう言葉にこそしないが、距離の取り方は明確だった。制裁で売上を制限される中国、併合をちらつかせる国に挟まれながらも、台湾を拠点とすることで両者をかわしている。企業として、政治を正面から受けずに生き延びる、絶妙な舵取りだ。

それ自体が、台湾という場所の戦略性を浮き彫りにしていた。

Computex会場では、有名YouTuberの姿はあまり見かけなかった。Hardware CanucksやGamers Nexusの姿もなし。その一方で、NoctuaのJacob氏にはきちんと会い、記念に写真も撮ってもらった。実機展示では、パッシブ水冷に強い関心を持った。NoctuaコラボのFlux Proも、質感が非常に良い。小型モデルを選んでしまったのは少し後悔しているが、Flux自体の機能性は高いと感じた。

Antecは「Nine Hundred」や「P180」といった懐かしい名前でケースを展開していた。狙いは明らかに中年層。しかし内容としては、Corsairの5000DとFluxの折衷という印象で、まだ様子見といったところ。Lian Li O11系のクローンが市場を埋め尽くし、静音性を優先した“窒息ケース”は選択肢から消えつつある。3.5インチHDDを3台積めるケースが、いまやフルタワーにしか存在しない時点で、個人的には魅力を感じにくくなっている。Fractal DesignのDefineシリーズが残した呪縛のようだ。

周辺機器で印象的だったのは、FL-esportsのキーボード。
初めて触ったが、価格と質感のバランスが良く、ゲーム用途にも十分。IQUNIX EZ80は、もし店舗展開されれば、PCMKを超える可能性すらあると感じた。

wootingは若い世代に熱狂的に支持されており、ブースには10代の来場者が集中していた。マーケティングが完全にネットに特化しており、そのリーチ力には感心した。

DOOM: Dark Agesは会場内で何度も展示されていた。
100インチを超えるLEDビジョンに流されていた映像は、悪魔を2つに分けるようなショッキングな映像を流し、場内の空気もまた独特だった。


台湾の町並みについて記しておく。

台湾は初めて海外に行く日本人でも、大きな困難はない。むしろ、差がなさすぎて戸惑うかもしれない。

かつてのように「為替が有利だから買い物に出かける場所」という感覚は、もう通用しない。むしろ物価は、日本と同等か、それ以上だ。屋台料理も安いという印象が残っているかもしれないが、いまでは一品500円ほど。お茶一杯が150円前後と、日本のファストフードとさほど変わらない。

日本が相対的に貧しくなっている現実を、肌で実感する。

タイへの旅行も視野に入れているが、かつては日本の1/5ほどと記憶していた物価も、今ではほとんど差がない。日本円はもはや「価値のある通貨」ではなく、外貨に対する緩衝材のような、リスク分散の一部でしかなくなってきている。

セブンイレブンでは、日本の商品が7割ほど並んでいた。異国の文化を味わいたい人間にとっては、やや拍子抜けする光景だ。「日本の味がないからホームシックになる」というような事態はまず起きない。地元のちょっと高めの価格帯のスーパーも同様で、醤油の棚ひとつ取っても、大型のイオンに匹敵する品揃えだった。「地産地消」というよりは、日本の興味深いものが安くて買っている――そんな実用感がある。

ただし、文化の骨格は中国語圏にありながら、明らかに独立している。会話の調子、儀礼の所作、イベントの構成。どれを取っても、「中国」とは別の道を歩んでいるのがわかる。

地下鉄に乗っていると、台湾の都市としての規模感がじわじわと伝わってくる。都市を“島”に構築するというのは、どれだけの時間と意志を要したのか。タワーマンションを一棟建てて「都市文化の象徴」などと語る日本の風潮が、どこか滑稽に思えた。

気候は日本よりもさらに湿潤で、カビや微生物の存在感が濃い。

空港に降り立った瞬間から、うっすらと漂う土と湿気の匂いがある。ただの土臭さではなく、泥とカビが混ざったような独特の匂いだ。植物の繁殖力が高く、下水処理も含めて街の清潔さは保たれているものの、自然の勢いに完全には勝てていない。それが「異国にいる」という感覚を否応なく呼び起こす。

この匂いは、日本のそれとは異なる。もしかしたら沖縄に近いのかもしれないが、はっきりとは言い切れない。

ただ確かに、日本とは違う空気が、ここにはある。


台湾から戻って以来、どうにも調子が狂っている。何かを置き忘れたまま帰ってきたような感覚が、ずっと残っている。

日本に近い場所だからこそ、かえって違和が際立つのかもしれない。思った以上に、距離の近さは「戻る」ことを難しくさせる。


台湾で買った湿布には、どこか民間療法めいた雰囲気があった。パッケージの印象も独特で、「本当に大丈夫か?」と思わせる素朴さがある。調べてみると、主成分は漢方。「ボルタレンのような成分は含まれていないので、肝臓を傷めない」と堂々と書かれていた。なるほど、そうしたニーズがあるのだろう。

サロンパスの正規品も売られていたが、その隣には「一條根」「金牌」など、どこか懐かしく、異国のにおいを纏った湿布が並んでいた。西洋医学がまだ浸透しきっていないというよりも、別の医学体系が、しっかりと根を張っていることを感じさせた。

こういうものこそが、旅の記憶として妙に残る。飛行機ではなく、湿布の匂いが、旅先の空気を思い出させることがある。


また、秋葉原のはずれにある病院に行くことになりそうだ。前回は盛夏、今回は健康診断の結果に驚かされ、精密検査を勧められて通うことになった。

十年ほど前なら、「余った皮がどうの」「二重に整形できる」など、たわいのない言葉が並んでいた。だが、年齢を重ねてくると、そうした言葉もどこか生々しく、無邪気に笑えなくなってくる。若者には冗談が通じず、こちらも軽口を慎むようになる。

診断結果に「脳に怪我あり」などと書かれていれば、誰だって身構える。覚えのないことでも、数値と所見は正確なのだろう。とはいえ、”death”に関わる単語が前触れもなく出てくるのは、心臓に良くない。

近所の医院はどれも、昔ながらの下町の“ヤブ”という風情が抜けない。通う場所が限られていると、あらためて思う。いざという時に頼れる医療機関がある街に住みたい――そんな思いが、じわりと胸に残った。


台湾から戻って以来、ひとりだけ三週間近く、小忙しい日々が続いていた。その忙しさが原因であることは、自分でも分かっていた。けれど、それを認めてしまうと動けなくなりそうで、心を封じて働き続けていた。

そして土曜日。

張りつめていた何かが切れたように、疲れが一気に噴き出した。熱は39度。ここ数年で見たことのない数値だった。

なんとか病院へ向かったが、体温計の数字を見た瞬間、気力が底をついた。そのまま帰宅し、布団に沈み込むしかなかった。


2025.06.08 / Category : 小噺

文学フリマに行く(予告)

読む側として、である。

Twitterで「文学フリマ」のタグを辿っていると、実に人間味に満ちている。
「話が長い」「文字数制限で表現が極端になって、読者がポカンとする」「描写が散らかってる」「結論が見えず、読んでる側がイライラする」「お前はインフルエンサーでもセレブでもないのに、なぜそんなに偉そうなんだ?」

——そんな投稿がごろごろ出てくる。これが心を落ち着けてくれる。ここには、世界の“ゆるさ”を失って複雑になっていく、なんとも言えない温度がある。

精読を求める姿勢が堂々巡りになるのも分かる。だからこそ、開き直りのスキルが必要だ。途中で読むのをやめてもいい、そう思えれば怖くない。理解できないことに対するプレッシャーがあっても、「最初の一文で読み手を導けていないなら、そっちが悪い」と、強い気持ちで受け止められる。熱量もなく、ロマンスもろくに語れない文章に対して、興醒めしても構わないのだ。

そしてもう一つ、屋号や本のタイトルには、やはりセンスが出る。
名前は内容を映す鏡だ。そこにズレがあると、「説明と違うな」「情報が足りないな」と即座に判断される。10年以上曲も作ってないのに、よく分からないレーベル名だけ掲げている自分には、ちょっと堪える発見だった。

それにしても、今日は夕方に起きてしまった。
焼きそば食って寝る。


倖佳の前を通ったら、やっぱりというか、大将のブチかまし精神が全開で、メニューがさらに増えていた。正直、ちょっと心配になる。

勉強熱心で、どの料理もハズレなし。

ただ、人員が減ってワンオペでの拡大営業となれば、さすがに無理がある。奥さんは産休中だし、もう少し「頑張るのはやめます」くらいの調整をしてもいいと思う。無理なく続けてほしいのだ。

案の定、味は抜群だった。だからこそ、体力の続く限りではなく、ずっと続けられる形であってほしいと願っている。


『Doom The Dark Ages』、どうにも『Doom Eternal』寄りの不穏な空気が強すぎて、今のところやる気が起きない。

『Doom 2016』を繰り返し遊んでいた身としては、今回のは“DOOMの皮をかぶった別のゲーム”、それもmodみたいなものに感じてしまう。『Doom eternal』の時点で既に「任天堂か?」と思うような陽気なパズル要素が目立ち、あの緊張感ある世界観を壊していた印象が強い。プレイ中も、鬱陶しさの方が先に立っていた。

今回さらに拍車がかかっていて、パシフィック・リムばりの巨大ロボまで出てくる。もはやソリッドなFPSではなく、タイミングゲーのようなものに思えてしまう。武器も「これ、doomだっけ?」と首をかしげるものばかりで、好き勝手やってるなあ……という感想になる。

今のところ、セールのときに買って、まあ確認だけはしておくか、くらいの温度感だ。


レントゲンでバリウムを飲んだはいいが、肝心のクソが出てこなくて焦った。

仕方なく風呂で体を温め、最終手段のイチジク浣腸を投入。おかげで大事には至らずに済んだ。水分も取っていたし、その日のうちに呪いは解けた——と思っていた。

だが翌朝、まさかの寝起きで再び呪いの声を聞くことになるとは。バリウムの試練は、そう甘くなかった。あれはもう、ストランドとボイドの25%デバフだ。

来年は胃カメラにしよう。


最近は、アヴァンギャルディの動画を見ることが多い。

もともとはアカネキカクで、あさちゃんの大阪万博の動画などをきっかけに登美丘高校ダンス部にハマっていた。ただ、部活動という形には限界もある。未成年をメディアに出すことへの倫理的な問題もあるし、継続的に表現を続けていくには難しさがつきまとう。

そんな中で、プロとして進んだメンバーたちが自らの表現を形にし、アヴァンギャルディとして登場したのは、本当に良かったと思っている。

コロッケが指導する動画にも、多くの示唆が込められていて、表現の方向性が自然と一致していく、その凄さに驚かされた。

エンターテインメントとしての側面と、そうではない本質的な部分が丁寧に切り分けられて語られていたのも、印象深い。

こうした表現に触れられたこと自体が、素直に「見てよかった」と思える経験だった。


これまで、主流のカルチャーにあまり触れてこなかったせいか、「最近かっこよかった俳優は?」「心に残った名シーンは?」といった問いに、すぐ答えが浮かばないことが多い。想像力や記憶の回路に、どこか偏りがあるのだと思う。

現実の中で、意味のわからない駆け引きや心理戦に日々さらされていると、漫画のようなフィクションを開いたとき、まず違和感や気持ち悪さのほうが先に立ってしまい、物語に入り込めなくなる。読み続けられなくなったのは、きっと現実のほうがよほど非日常だからだ。


2025.05.24 / Category : 小噺

オブジェクト配置

仕事で、10年ぶりにVegas Proを使うことになった。最新のバージョン——22の体験版を試したが、驚くほど10年前の使いづらさのままだった。

そもそも日本語ファイルすらまともに入っていない。入れられるのかもしれないが、旧バージョンのプロジェクトとの互換性も怪しい。過去の資産を継承しない姿勢が見える。使い方は、YouTubeを頼りに何となく思い出しながら数時間で簡単な動画を一本仕上げることができた。

基本的に、レイヤーを置いてカットして並べるだけなら10分のレクチャーでどうにかなるソフトなので、紙芝居のような動画を作るには楽。ただ、拡大縮小や配置といった操作が独自仕様すぎて、相変わらず面倒だったのを思い出す。

しかも、ここまでバージョンを重ねても、いまだに丸や四角すらまともに配置できないことが分かって、完全にやる気が消えた。ベクターデータの扱いも一応できるようだが、直感的ではない。複数の図形を1つずつレイヤーで配置する仕様のせいで、タイムラインがすぐに見づらくなる。

言い換えれば、PowerPointのような感覚で使える機能は皆無。素材を切って貼る以上の用途には向かない。唯一の救いは、プロジェクトを他ソフト向けに変換できる機能だが、それすら扱いづらい形式にされていたら、もう触らない方がマシだろう。

次に動画を作るときは、Premiere Proを使いたい。

あれは少なくとも、そこまで変な仕様ではなかったはずだ。昔はマスターコレクションを契約していたが、今はPhotoshopしか使っていない。というのも、秘蔵の海原雄山コレクションを整えるには、Photoshopの方が圧倒的に向いているからだ。

Affinityも試しているが、設定がうまく記憶されなかったり、細かいところを毎回いちいち自分で調整しないといけないあたりが、どうにも面倒でなかなか馴染まない。


最近、昔を思い出すようにクーロン黒沢の動画を見るようになった。

あの温度感、アングラなのかそうでもないのか分からない、淡々としたフラットな語り口が心地いい。内容は相当エグいエピソードばかりで、間違っても万人に勧められるものではない。真面目な人が見たら普通に寝込むレベルだと思う。

DJ北林とかミスターPBXとか、最初は誰かの覆面ペンネームかと思っていたら、まさかの本人登場。てっきり阿鼻叫喚、キョーフのズンドコになるかと構えていたが、意外とヌルっとしたテンションで拍子抜けする。この肩透かし感すら味になっている。

そこから派生して、丸山ゴンザレスや村田らむといったライターたちの「答え合わせ」的な動画にも手を伸ばしている。当時のバックパッカーがどう見られていたのか、どんな扱いだったのか、いまになってようやくその視点がわかってきた。まあ、ろくなもんじゃなかったな、って感想に落ち着く(小並感)。

年を重ねるにつれ、「別世界の話」だと思っていたことが、実は地続きだったと気づいてしまう。その感覚にゾッとするようになった。そりゃ戦争もセックスもなくならないわけだ、と妙に腑に落ちてしまうあたりが、また怖い。


老化について、記録を残しておく。

若い人にも伝わるような「老化とは何か」を考えながら書き出してみると、これまでに経験したことのない、バグのような現象ばかりが浮かんでくる。

  • 風呂に入って体を温め、ようやく眠ると、そこで初めて疲れが抜ける。とにかく回復までの手順が多くて長い。
  • 空腹と満腹が、なぜか同時に襲ってくる。腹が減ったと感じてみかんをひとつ食べると、それでもう「もういいや…」という気分になる。
  • 寝不足になると、決まって吐き気が止まらない。リカバリーも効かず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
  • 食事をして満腹にはなるのに、「食べた」という実感や満足感がまったくない。味や量の問題ではない、もっと根の深い欠落感。
  • 気がつくと、自分がとても臭くなっている気がする。これは中年特有かもしれないが、「何か悪い匂いがしていないか?」という警戒心が常にまとわりつくようになる。

老化とは、「知らない仕様が次々と増えていくOSを、説明書なしで使い続けること」なのかもしれない。


最近、手軽にゲームをするという環境がまったく無くなってしまった。

たとえば『Destiny 2』を気軽に起動して、ふらっと数戦プレイできるようなゲーミングPCがあれば理想なんだけど、どれくらいのスペックが必要なのかすら、もはや見当がつかない。そういう情報を追うのも少し億劫になってきていて、余計に距離が空いてしまう。


大阪万博に行ってきた。

ミャクミャクの人形を買ったので、個人的な思い出としてはそれで十分。会場では、声に反応するタイプの人形は売っていなかったのが残念だった。レネの人形も検討したが、チェコのパビリオンでしか売っておらず、しかも30cmほどのサイズが1種類、9,000円で販売されているだけ。もう少し小さいサイズがあれば買っていたと思うが、持ち帰りが大変そうで断念した。時間と荷物に余裕のある人に託したい。

万博のパビリオン予約は公式アプリ限定とのことだったが、この予約システムがとにかく煩雑。何が空いているかを一覧で見られないし、予約失敗すると最初の画面に戻される。予約しようという気持ちがどんどん萎えていった。結果的に、会場内を散歩して回ることがメインの思い出になった。

おそらく、9月のような人の波が落ち着く時期が、一番楽しめるタイミングなのだと思う。並ばずに各所を見学できるほうが、経験としてはずっと豊かだ。今のように「予約が前提」で「空気感も冷えた」状態では、どこか気持ちが置いてけぼりになる。

目玉とも言える輪っかには登ってみたが、内側のパビリオン全体は見渡せず、むしろ入口ゲート側のような、開けた展望のほうが眺めとしては良かった。

万博に対して「何かを見聞きしたい」という期待があると、費用に対して割高感は拭えない。一方で、マレーシアやスペインのダンスイベントのように、並ばずに楽しめる賑やかな催しは素直に良かった。北欧のパビリオンにも入ってみたが、暗い部屋でパワポ動画を見て、そのままムーミングッズを買って出るだけ。解説でもあれば印象は違ったかもしれないが、何もないまま数分で退出した。

建築やパビリオンのデザインを見て回りたい人には、それなりに楽しいはず。ただ、子連れだとかなりハードな一日になるだろうというのが正直な感想だった。


実家に帰る。

「静かに狂っていく」という言葉を噛みしめる。ここでの「狂う」は、錯乱とか妄想といった劇的なものではない。むしろ、今まできちんと噛み合っていた歯車が少しずつずれていき、調子が合わなくなる——そんな意味合いだ。

親子関係そのものは変わっていない。けれど、親が少しずつ「知らない人」になっていく感覚がある。過去と現在の記憶の境目が曖昧になり、最近の出来事と昔のことがごちゃ混ぜに語られるようになっていく。その様子を目の当たりにすると、血縁でさえも、だんだんと関係性のない他人へと遠ざかっていくような錯覚に陥る。

たとえば、自分のこと。断片的に覚えてはいるようだが、こちらが初めて聞くような話もぽろっと出てくる。母がふと、「あんたが赤ん坊のときに障がいを持たせてしまったかもしれない」と懺悔のように語り始めた。昔から、息子が階段から頭から落ちた——という記憶だったが、実際は少し違っていたらしい。

赤ん坊だった自分が、子ども椅子に座ったまま足を出し、テーブルを蹴ってひっくり返り、頭から床に落ちたのだという。以前聞いていた話とは食い違っていた。母がそのことを語るとき、どこかバツが悪そうで、自責の念のようなものもにじんでいた。

けれど、最近のことをほとんど覚えていない一方で、こうした過去の記憶が突然あらわれてくるのを見ていると、親の中でも記憶の断捨離が始まっているのかもしれない、と思った。そしてそれに伴って、かつての親子としての関係性や記憶も、少しずつこの世から消えていっているような感覚になり、言葉にならない悲しさがじわりと込み上げてきた。

2025.05.07 / Category : 小噺

背乗り

Bungieの『Marathon』ARGについて、日本語の情報がほとんど無くて、結局は英語圏の情報を漁ることになった。どうやら今はネット上での謎解きキャンペーンの真っ最中らしい、というところまでは把握できた。

ただ、この手のARGは「とんち」や「発想力」でどうにかなるレベルではない。実際のところは、音声データのスペクトラム解析や、ステガノグラフィーの読み解きのような、本格的に技術を駆使しないと進めないものばかりで、想像以上にハードな追い込み方が求められている。

こういった手法は『Destiny 2』にも似たような仕掛けがあって、なるべく目をそらすようにしている。というのも、通信内容をバイナリで引っこ抜いて、ディスアセンブルしてまで解析するような人たちが現れるので、「本気の通信」はもう、時間の問題で暴かれるものだという感覚がある。

……と思っていた矢先、YouTubeで「すべて解けました」という動画が上がっていた。案の定というか、やっぱりというか。

『Marathon』のデザインを眺めていると、どうしても The Designers Republic を思い出す。おっさん世代しか知らないかもしれないが、あの『Wipeout』で一世を風靡した、尖りまくったデザインハウスだ。30年以上前のデザインの系譜を、あからさまに引き継いでいるように見える。特に、サンセリフ体フォントの選び方や扱い方に、共通点が多い。

ゲームの核は「3人組でプレイするタルコフ」だという話も出ている。

つまり、Destiny 2 と同じく、うまくコミュニケーションが取れないと即敗北に繋がるタイプのゲームになりそうだ。そうなると、マッチングで中国系の「思い通りに遊べないなら妨害に回る」系ムーブに遭遇して、あっという間にやめる未来も想像できてしまう。

現時点では、著名なプレイヤーだけを招待してロケーションテストをしているという話もある。彼らにはすでに交友関係やプレイ習慣があるから、遊べる下地がある。けれど、新規ユーザーや、フレンドと定期的にプレイする文化が無い層に向けた導線や設計は……おそらくD2と同じで、何も用意されていないだろうと推測している。


Adoが歌で怒鳴っても気にならないのに、大森靖子がシャウトすると不快に聞こえるのは、いったい何が違うのかと考える。

おそらく、歌詞や声のニュアンスを通して、自分の中にある不快さや怒りのような感情を、関係のない相手にぶつけているように感じるからだと思う。それはまるで、他人の喧嘩を無理やり視界にねじ込まれているような感覚で、たとえ正論でも、自分とは関係のない誰かの生々しい都合を一方的に押し付けられることへの不快さがある。

Adoの場合、その怒りや激情が舞台装置として成立していて、あくまでパッケージされた表現としてこちらに届く。だからこそ、ある種の距離感が保たれていて、「人生に侵食してこない」気持ちよさがあるのだと思う。

若い頃に、興味もないおっさんの愚痴や事情を延々聞かされて辟易した経験と、似ているのかもしれない。そして今、自分がおじさんになった側でも、同世代の愚痴を聞かされるのはやはりしんどいし、別世界にいるような人が「世界代表」の顔でズレた話をしているのを見ると、引っ込んでてくれと思ってしまう。それもまた、自分の性分なんだろう。

ちなみに、街録チャンネルはどうしてもオープニングのテンションが無理なので、毎回そこだけ飛ばして見ている。


体育会系が悪いわけじゃない、というか、あらためてフラットに考える時間があった。

この歳になってようやく気づいたのは、彼らが社会で一定の評価を受けるのは、「教育ができる」「面倒が見られる」といった、他人に干渉できるスキルを持っているからだということ。出来ない人をどう補うか、その人の力量を見て、チーム全体としてのパフォーマンスをどう引き出すか。そういった工夫や発想ができるから、自然と信頼され、優遇される場面も増えていくのだと思う。

一方で、文化系の世界は個人の能力勝負が基本で、「チームで何かを成す」というよりは、ボクサーのように孤独な戦いを強いられがちだ。もちろんサークルや部活といった枠組みはあるが、そこに「仕組み」や「支え合い」の文化が根づいているかというと、少し疑わしい。だからこそ、誰かを助ける力や場を整える意識よりも、「自分がどうするか」が優先されがちになる傾向があるようにも思う。

そう考えると、体育会系の構造に近いのは、ある種の宗教かもしれない。共通の価値観を持つことでコミュニティを運営しやすくし、連絡や協力もスムーズにする。一方で、個人主義が強く、金銭や成功の独占が人生の軸になっているような場合は、どうしても孤立リスクが高まっていく。今になって、その仕組みが少しずつ見えてきた気がする。

2025.04.18 / Category : 小噺

珍々亭

最近、太田胃散の錠剤を常用するようになってしまった。

胃の痛みや胸焼けがひどいときに飲むと、だいたい30分くらいでゲップが出て、そのあとスッと落ち着く。効いてるな、という実感がある場面が本当に多い。効能がわかりやすいぶん、つい頼ってしまう。

最近よく見る医者系YouTube動画、最終的には自作サプリの販売に誘導しているケースが多くて、なかなかEvilだなと思う。ただ、特定の製品ごとの違いをわかりやすく区分けしてくれるだけなら、害は少ないのでそこは割り切って見ている。

一方で驚いたのは、薬剤師系YouTuberへの信頼の無さだ。もっと知識で的確に斬ってくれるのかと思いきや、やたらバズりたい欲や自己顕示欲が前面に出ていて、正直「なんなんだアレは」と言いたくなる。

情報の質より目立つこと優先、みたいな空気が強すぎて、専門職としての信頼感がどんどん揺らいでいくのを感じる。


最近、YouTubeでおすすめに出てきたIllidianceというロックバンドを聴いてみたら、これがかなり好みだった。

何よりクリーンボイスが良くて、それだけでちょっと贔屓目に見てしまう。サウンドもまとまりがあって、今の気分にちょうどハマっている感じがある。これはしばらく聴き続けそうだ。


自分が子どもだった頃の記憶を思い出す。

小学校の門の前に、ファミコンのカセットを見せびらかしているおばさんがいた。30本ほどのソフトをアタッシュケースのようなものに詰めて、「塾に入れば好きなゲームを1本あげる」という話をしていた。

当時の自分は、そんなやり方が“商売”だなんて知らなかった。ただ純粋に「塾に入りたい」と親に言ったら、即座に却下されたのを覚えている。

いま振り返ると、20万円ほど使ってファミコンソフトを買い集め、それを餌に塾の勧誘をしていたのだとしたら、倫理的にはさておき、かなり効率的な宣伝だったのかもしれない。よくわからないポスティングに金をかけるより、ずっと直接的で、効果はあった気がする。法的にはどうか分からないが。

もっとも、あのまま塾に入れたとしても、ファミコンカセットが本当にもらえたかどうかは怪しい。そもそも塾自体が実在していたかどうかもあやしい。なんとなく、あの場限りの話だったのではないかと思う。

そういえば、あの小学校の門の前には、他にも妙な手合いがよく来ていた。町内の夏祭りになると、誰とも知らない中年が突然出店を開き、折ると光るネオンブレスレットなんかを売っていたものだ。

今の時代では、身元の分からない人間が学校の前に立つことなんてまず許されない。だから、ああいう光景を目にすることももうないのだろう。

けれど、人の欲や商売のアイデア、そして奇妙な距離感は、形を変えてまたどこかで現れてくる。そう思うと、なんとも果てしない気持ちになる。


GMKのキーキャップ、正直すごいなと思った。

  • 指の腹がザラザラと触れるけれど、しっかり指紋に食い込むような粒度になっていて、まったく滑らない。
  • ABS素材なのに、キーの縁に当たっても角が丸く、痛くならない。
  • そしてABSなのに、思ったほどテカらない。

3つ目についてはまだそれほど使い込んでいないので、あくまで推測ではあるけれど、少なくともFilcoの標準キーキャップよりは明らかに耐久性が高そうだ。価格に見合う理由が、手に触れた瞬間から伝わってくる。


油そばが食べたい。

あの、旨さの幅が狭い、いかにも“質の低い店屋物”という味が恋しくなるときがある。

思い返せば20年ほど前、一人暮らしを始めた頃。ラーメン屋を開拓するのがちょっとした趣味になっていた時期に、油そばというジャンルが“ポテンヒット”のような感じで小流行していた。近所にもそれ系の店があって、何となく入ってみたのだが──どんな調味料をかけても味に深みが出ない、あの妙な一体感のなさに驚かされた。

他の店にも何軒か足を運んだが、どこも似たような味。結果、「なんて美味くない食べ物なんだ」と呆れて、それっきりだった。

それでも、時が経ってふと、あの“微妙さ”ごと懐かしくなり、もう一度食べてみたくなった。けれど、今住んでいる下町にはそういった店が見当たらず、探すにはネットを頼るしかない。あの味、まだどこかに残っているだろうか。再会するには、あの屋号──モラル的にどうなんだ?と思うような店名も避けては通れない。でも、それすら含めて、また食べてみたい気がしている。


自宅のAMD機をVMwareで使っているけれど、正直デカすぎてだるいなあと感じている。

個人利用だからスペックに不満はまったくない。けれど、単なる開発環境として使うだけなら、ここまでの性能は正直いらない。もっと小さいサーバーが欲しくなる。

昔だったら、そう思った瞬間にノートPCを買いに走っていた。でもさすがに最近は、ノートを買いすぎて処分すら面倒になってきた。物欲よりも、形のないもの——使い勝手とか構成の美しさとか、そういう欲求のほうがだんだん大きくなってきている気がする。

2025.04.05 / Category : 小噺

杏仁豆腐

白髪染めの「染め時間」がいまいち分からない。

少なくとも、Lucidoを使うと自分の髪質ではどうも便臭っぽくなってしまうことが分かった。なので、次は別のブランドに変えなければならない。ただ、過去には名前すら思い出せない某ブランドで、1ヶ月近く強烈な便臭が続いて使い切れなかったトラウマがある。あの地雷感を思い出すと、次に何を選べばいいのか、本当に不安になる。

それにしても、どのメーカーのパッケージも似たり寄ったりで、「昔の氷川きよしかショーン・Kにどれだけ寄せてるか選手権」みたいなビジュアルばかり。選ぶ気力が削がれるというか、毎回ドラッグストアで立ち尽くしてしまう。正直、もうちょっと分かりやすくて、においに関する評価を前面に出してほしい。


最近、『Destiny 2』に対するモチベーションが、理由もなくガクッと下がっている。

エピソードはひととおりクリアしているものの、迷宮や各種アクティビティに対してはどうにも前向きな気持ちになれない。プレイしてもテンションが乗らず、惰性でログインしているような感覚が続いている。

ゲーム自体に飽きたというわけでもないのに、手が伸びない。不思議な停滞期に入ってしまっている。


倖佳が、良い理由でワンオペ体制になると知って、ひとまず安心した。

あとは奥さんが健やかに過ごしてくれることを願うばかり。そして、勉強熱心な大将自身も、無理をして体を壊さないでほしい。一人でやっていると、きっと「負荷はかかるけれど、あれはやっぱり出したい」みたいなことをやりかねない人だと思うから。

これから年単位で一人で切り盛りするのだろうし、できることなら、どこかのつてで弟子の一人でも雇えたらいいのに──と、そんなことを思ってしまう。


子どもの頃以来、ひさしぶりに科学技術館に行ってきた。

建物自体は70年代の昭和感がよりいっそう色濃く残っていて、入口に掲示された「寄付をした企業一覧」には、第一銀行などすでに現存しない大企業の名前が並んでいる。

館内を見て回ると、全体的に老朽化が進み、スタッフの数も足りていない様子で、マネタイズもうまくいっていない印象だった。YouTubeでは楽しげな紹介動画が上がっているものの、実際は多くの展示エリアが改修中で封鎖されていて、見られる場所はかなり限られていた。

全体として、かなり限界を迎えつつある空気を感じた。懐かしさとともに、持続の難しさも強く印象に残る訪問だった。

子どもの頃に衝撃を受けたドライブシミュレーターは、今でも現役で遊べた。5階にある鉄の玉を転がしたり、動かしたりする装置も健在で、あの頃の楽しい記憶が一気に蘇ってきた。

ただ、バイオサイエンスや生命科学のエリアは、パネル展示とワークショップ中心になっていて、次の回まで待たないと楽しめないものばかり。展示も「最新の科学」に触れるという感じではなかった。自転車のコーナーに至っては、20年前のパネルがそのまま放置されていて、「ああ、お金が足りていないんだな」と思わずにはいられなかった。

美術館のように企画展やイベントでマネタイズできないのか……とも思うが、あの規模感では難しいのかもしれない。もし、最新技術の展示や企業向けの会議などに使えるようなスペースがあれば、会社員として支援のしようもあるのだけれど、それもまた簡単な話ではなさそうだ。

そして今回、かつて小遣いが足りずに買えなかった「宇宙食」をついに購入して帰ってきた。中でも“宇宙アイス”は、後になって「実際には食べられていない」という証拠が出てしまったらしく、「じゃあアレは何なんだ!?」という謎の代物になってしまった。でも、それでもいい。あの頃、ドライフリーズなんて言葉すら知らなかった自分が、想像の中でロマンを買っていたのだから。

……うーん、まずい。でも、それでいい。


年末から花粉症の薬を飲んでいるが全然ダメだ。つらい。

2025.03.23 / Category : 小噺
Older Posts »