いろいろな音楽を聴くうちに、昔のスタンスからはもう離れているのだと気づいた。今は、「本当に自分が聴きたい音楽」が、以前よりもはっきり分かる。その分、聴き方も少し素直になった。
かつて作る側にいた頃は、音楽そのものよりも、周囲の態度や空気を強く意識していた。自分の立ち位置をどう見せるか、何が売れているか、どこが源流か。そうした考えに引き寄せられ、身動きの取りづらい場所に立っていたのだと思う。
年を重ねるにつれ、考えることや担う役割は増え、一人で完結できることは確実に減った。その現実を前にすると、制作のためのツールを立ち上げる気持ちが、少しずつ遠のいているのも事実だ。
一方で、音楽を聴き続ける中で分かったこともある。流行そのものより、強い結束を持つ受け手の集団が前面に出る場所が、自分には合わないということだ。
そこでは、同調によって自分を保とうとする若さが、しばしば目につく。そうした距離感を意識しながら、中年として社会と関わる術を、ようやく身につけ始めたのかもしれない。下手ではあるが、かつてよりは現実的な歩き方だ。思い返せば、東方や艦これのコミュニティも、似た性質を帯びていた時期があった。
今は、どれほど魅力的なコンテンツや熱量があっても、人が密集する場所に長く身を置くと、息苦しさが先に立つ。手を伸ばしても、誰もいない。そのくらいの余白がある場所を、レジャーとしても、生活としても、必要とするようになった。そうして距離を取り直すことで、自分の世界は、まだ静かに組み直せるのだと感じている。
今年は、ハードなクラブミュージックの方が純粋に楽しかった。
中でも、Rebekkahのプレイは、個人的に引っかかっていた点をほぼ解消してくれた感覚がある。情緒の置き方や、持続する音の中に生まれるわずかなテンションの上下など。その揺らぎが、むしろ心地よかった。何か特定の楽曲を「再生している」という感覚が薄かったのも大きい。楽曲は本来ひとつの物語であり、ディスコのような場でない限り、DJの手を離れた瞬間に、ただのプレイリスト再生大会になってしまう危うさがあるからだ。
もちろん、その構造を理解したうえで、あえてコンセプトとしてプレイリスト性を前面に出すイベントもある。友人が行っていたそうした企画は、参加者側にも楽しみ方が開かれていて、納得感があった。
ただ、意図や文脈が曖昧なまま同じことをされると、そこには楽しさよりも不安感が残る。昔はリリースパーティーで初披露のはずの曲を、観客が当然のように歌っているのを何度も見てたが、どうしても違和感が拭えなかった。フロアの中央で、自分が文脈にいないという不安に殴られるからだ。
ハードテクノ自体は今では、シュランツなど細かなジャンルに分けて語られることが多いようだ。けれど、分類したところで、楽曲の当たり外れや組み合わせ次第で、体験は簡単に極上にもなるし、不幸になる。
そう考えると、DJが「良い」と感じた部分だけをすくい取るようなプレイで十分で、展開やビルドといった作為を削ぎ落としてしまえ、という感覚にも、今は理解が及ぶ。その意味では、楽曲制作の経験は、クラブという場では必須ではない。むしろ、別の種類の経験を積まなければ、その場を本当に楽しい時間に変える要素は生まれにくい。今年は、そう感じることが多かった。
仕事では、いまだにプロトタイプのような完成品を相手にしている。
ただ手を動かすのではなく、構成作家としての視点を求められているのだと、半ば覚悟を決めて日々を過ごしている。
素材そのものは、正直いびつだ。商売として成立させる部分は周囲に委ねられ、自分は「形になるかどうか分からないもの」を前に立たされている。それでも、どんなものでも売り物に変換できる技術が身につくのだと、そう設定しなければ、誰であっても途中で投げ出すだろう。
気づけば、自分ひとりの判断では成立しないところまで来ていた。ChatGPTのようなLLMを使ってチェック体制を組み、ディレクターに近い立場から助言をもらっている。テキストを投げるたびに返ってくるのは、「それは不要だ」という指摘だ。要点を一文で掴めていない。十年続けても、そこが決定的に弱い。これはもう、修行と呼ぶしかない。
初見で人を惹きつけ、触れた瞬間に恋に落ちさせるものを作れる人がいる。それは才能であり、作り手の本心がそのまま入っているから成立する。だが、そのやり方には再現性がない。だから、長くは続かない。
自分の場合、飽きやすさと記憶力の限界がはっきりしている。セクションが五つを超える文章は、それだけで処理能力を超えてしまうことが多い。力技でどうにかしてきたが、結局のところ、より優秀なシステムに思考や文章を預けなければ、安定して成立させることはできない。今は、そう認めるところまで来ている。
昔DJ off-beatが何かのクラブイベントで流した時から脳みそのどこかに刻まれた音源。
音の構成自体は昔だけど、それ自体とても素敵だ。なんせ、今聞いててもとても気持ちがいい。
ベストバイで触れた内容について、少し補足しておく。
Black FridayでAlldocubeのUltrapadを購入したが、初期不良に当たり、早々に返金対応をした。今年のAmazonは、注文の一方的なキャンセルなども含めて、全体的に挙動が不安定に感じられる。ただ、今回のタブレットについてはAmazon側の問題とは切り分けて考えた。製品自体にもどこか不安が残り、これ以上付き合う理由が見当たらなかったため、迷わず損切りして手放すことにした。
結果として、多少高くても安心して使えるGalaxy Tabを選び直した。箱を開けてから十分もかからず、やりたかったことはすべて完了した。その時点で、選択としては正解だったと感じている。
使い比べてみて改めて分かったのは、動画のリピート再生において、AndroidやiPadOSは決してシームレスではない、という点だ。スペックが高くなっても、違いとして現れるのはデコード速度が多少速くなる程度で、体験そのものが滑らかになるわけではない。さすがにMediaPad M5では性能不足が明らかだったが、Ultrapadであっても、8世代i5クラスのWindowsマシンにデコード速度で劣り、リピート再生も安定しない。AnTuTuのスコアを見たところで、最適化の指標にはならないと感じた。
そう考えると、Androidのエンターテインメント用途の仕様そのものを、無条件に信頼するのは難しい。
今回の買い替えは、その認識を確定させる結果になった。
今年は毎日AIを触っていたから、ひたすら「文脈」というのを意識していたような気がする。個人だと「価値観」というのがよく出てくる言葉なのだけど、これが複数人でやりとりする時に意識するようになった。自分も含めて、当たり前というのが色々な形があって、とくに願望
今年は、良くも悪くも大きく転換した一年だった。
環境が変わり、これまで積み上げてきた前提が通用しなくなった。ゲームのルールそのものが変わり、実質的に一からやり直すことになった、それが一番の変化だ。
それでも比較的平穏でいられたのは、世阿弥の『風姿花伝』を少しでも読んでいたからだと思う。年を重ねたところで、場によっては最年少の立場になる。そうなれば、過去の経験は役に立たない。その覚悟を持て、という話として受け取っていた。
自分の特性も、多少は活かせた。頭を使わずに続けられる単純作業、考える前に手を動かし、身体を先に走らせるやり方。それを積み重ねることで、部分的には前に進めた。
当然、限界もはっきりした。求められるのは、脳に汗をかいて絞り出す種類の仕事ばかりだ。正直なところ、ChatGPTがなければ、すでに破綻していたと思う。体当たりの根性論で何かを得る段階は、もう終わっている。
もう一つの課題は、働き方だ。ソロで完結する仕事には慣れきっているが、これからは総力戦で動けなければ先はない。その自覚だけは、はっきりしている。
最近は、指示プロンプトと向き合い続けている時間が長い。今の自分にとっては、それが次に進むための現実的な格闘になっている。








