2マン

今の自分と文章の向き合い方。
金を貰えるわけでもないのに、何で文を書くのか。
目的は、ただ書き連ねて頭の中の交通整理をしたい、というのがある。暇になると聞きたくもない変な考えがやってきて、自分に対して大声で言ってくるのだ。「子供を残せない奴に何ができる」「もう何も伸びしろがないだろう。周りを見て見ろ、無い人とある人の違いも分かっているだろう。才能なし。」「子供の時にあんな恥知らずの行動をしていて、まだ生きようとしているのか」「裏切り者」など、だ。

この辺りはまだいい方で、暇な時間がやってくると今週起きた、嫌なこと、面倒なことをまるで再現ドラマのように頭の中で配信される。
日曜の夜にやってくるので、どうにもうまくやり過ごすしか無い。なぜ、こんなことが自分の中で起きるのかは考えないようにしている。

ただ、その辺りを無視するために手と頭を動かしている。家の中でボーッとしては行けないタイプの人間なのだな、と思う。毎日、人気のない所へでかけて行って好き勝手に感動して、泥のように疲れて寝るのがまだ健康的なのだ。
文章を書く時には、こんな感じで向き合うことが多い。

以下、文章を書く時の脳内をイメージする。
今日は何もない休日。独身で、誰かのために生きていく人生でもない。
昼過ぎに風呂に入り、あとは酒を飲みながら日の入りを見るぐらいしかやることがない。
酒も飽きて、スーパーに入り、酒やらツマミをプラスチックで出来た、緑色の手提げかごに入れる。
昨日はトンカツを食ったから、揚げ物はやめにしよう。白身魚を焼いて、大葉を添えて一緒に呑むか、など・・・。

文章を書く時だけ不思議なことに、何かをしたくなるという気持ちになる。意欲が溢れてくる。
頭の中にある単語をできるだけ書き起こして整理する、というだけなのだがいくらでも出てくる。

作曲やら絵画もどうようにやりたいことがどんどん沸いてくれば良いのだと思うが、文章でのやる気というか、ゼロから気負いなくできるのが一番いいから、続いているのだと思う。
作曲もいい加減自分が好きな音楽を突き詰めて、演奏することから始めればよかったが、なまじ機械に任せて好き勝手に遊び呆けていたのが良くなかった。
あとは、音楽だと受け入れてもらうには魅力がない手段も使わないと理解されない、という恐怖が出てきて変な気持ちになるのだ。こういう所は本当にしっかりした音楽の専門施設で勉強をしたかった。日本にもpointblank的な場所があればなあと思った。が、自分にとっては納得行かない音ばかり鳴らされてたら行かないんだろうと思ったりもした。


日曜、日の出とともに夢の中で階段を踏み外して、右足がこむら返りになる。激痛で起きるも、ストレッチをするほどの力が沸かずに二度寝、9時前まで寝続ける。
ベッドから降りると完全に足を引きずるレベルで痛みが出てくる。
翌日まで引きずる。


老害になるのはいつからか、という問いがある。
個人的な経験としては、10代から、という答えを持っている。
その時点ですでに片鱗があり、35を過ぎると悪化というかそこを境に害がでてくるのだというのが個人的な経験則。

話を聞かない、書いてる事をあえて読まない、自分は劣っているんだ優遇しろといつも他人に言いづける。
この習慣を持っている人は、いつしか老害となっていき、完全に利益よりも害を多く齎す。
和をもって尊しとなす、が出来ない。ピントのずれた事を言って、否定する。
大きな社会が形成できなくなり、小さなコミュニティしか出来なくなる。
小さなコミュニティですら連携は出来ない。小さくても何としてでも家来を欲しがる。

今まで無いタイプの困難に出くわしていて、今までの考え方では通用しないことは理解している。
将棋の知識は合ってもLoLで強さは保証されない、求められる戦略の種類が違うという状況に置かれている。
自分で経験を稼ぐことはできないので、ひたすら本の力を借りてレイドに挑むしかない。

2021.06.07 / Category : 小噺