最近、口調について考える機会が増えている。
使う単語や、それに付随するイメージ、イントネーション。それが自分にとって聞き慣れたものであるかどうか──このあたりは、人と人の関係性をつくる上で、意外なほど大きな影響を持っているのだと感じる場面がやたらと増えてきた。
「伝えるには口の聞き方を変えろ」とよく言われる。けれど、実際にはそれ以前の問題として、イントネーションや話し方に自分たちと異なる要素が入ってきた瞬間に、拒絶のスイッチが入る人も少なくない。「気に食わない」というのは、案外、言葉そのものよりも音やリズムのズレに対する反応であることが多い。
さらに言えば、「誰が言うか」で伝わり方は大きく変わる。関係性の距離感とよく言われるけれど、実際は「上下」でしか見ていない人も多い。若くしてその感覚がバグっている人もいて、そうなるともう、こちらからはどうしようもない。
たとえば、おじさんが若者言葉を使っても、会話の端々に滲む“おじさん言葉”が邪魔をして、結果として拒絶されてしまう。そのとき若者側が感じているのは、単語の違和感ではなく、「自分たちのコミュニティに、無関係の人間がズカズカ入ってくる」ような侵略感であって、それはイントネーションや間の取り方といった非言語的な要素から生まれているような気がする。
このあたり、若いうちから落語や古い映画など、異なる世代や世界の言語感覚に触れてきたかどうかで、許容できる範囲が変わってくるのだろうというのが、最近の個人的な実感だ。
思えば、自分は子どもの頃に、親がレンタルビデオにハマっていて、洋画ばかり一緒に観ていた。だからなのか、日本的な“機微”というものにピンと来ない感性が育ってしまった。今でも『男はつらいよ』のような邦画を観ると、どこか気恥ずかしさというか、“きつさ”を感じてしまう。
思い返すと、当時の自分にとって邦画は、どこかYouTuberのコントに近い印象があった。作っている側が本気なのか分からないし、どこまで真面目に観ていいのか判断がつかない。むしろ『ドリフ』や『とんねるず』のテレビ番組の方がずっと楽しかったし、家族の誰もドラマを観ていなかったという環境もあって、空気感や“お約束”を共有する機会がそもそもなかった。
だから、従兄弟の家に遊びに行ったとき、家族みんなでテレビドラマを観て、その回について語り合っている光景を見て、正直驚いた。血はつながっていても、育つ習慣や文化はまるで違う。それを知ったのが、あのときだった。
あまりドラマを観る習慣がなかったけれど、「見ないままでいるのもどうなんだろう」と思って、『地面師たち』を観てみた。
東京に住んでいるせいか、描かれている“東京的な嫌さ”が妙にリアルで、そこがとても良かった。空気感というか、登場人物たちのクズっぽさにも嘘くささがなく、ちゃんと“本物”らしい嫌なノリがあって感心した。
特にアントニーの演技が良かった。手のひらをあっさり返すキャラクターなのに、情緒不安定とか狂気じみた演出に頼らず、ただ堂々と「嫌な奴」として成立している。その潔さが逆に気持ちよくて、印象に残った。
あとは『黄うんちたち』を観るだけだ。
最近、見るものが少しずつ変わってきた。
ここにきて初めて石川典行の配信をちゃんと見るようになったのだが、意外にもすんなり馴染めた。どこか伊集院光のラジオに通じるような、話との距離感や向き合い方があって、思っていたほど抵抗がない。
声や内容のテンションはまったく違うのに、不思議と“聞いていられる”空気がある。今の自分にちょうど合っているのかもしれない。
生成AIを使っていると、気がつけば10TBのHDDすら容量が怪しくなってきている。
Checkpointだけで平気で50GBとか食うので、仕方ないといえば仕方ないのだが、保存データの感覚が完全に狂ってきている。
とはいえ、今の為替を考えると、2025年の日本円の価値は数年前と比べて実質“半額”に近い。感覚的に、あらゆるものの値段が2倍になっている。たとえば、GeForceの3090が20万円前後だったのに、5090は平気で40万円を超える。これは性能向上以上に、貨幣価値の低下をそのまま体現しているようなものだ。
スーパーで見る商品価格もじわじわと上がっているけれど、どこかで「一時的な値上げでしょう」「コーラ1.5Lも130円に戻るだろう」みたいな感覚を手放せないでいる。だが現実として、それはもう戻ってこない数字かもしれない。
年収の目標として語られる「1000万円」も、実態としてはもはやかつての500万円ぐらいの価値しかない。以前500万もらっていた人が今同じ暮らしをしたいなら、1000万は最低限必要だという感覚だ。でも、多くの人がこの“数値のズレ”に気づかないまま生活している。
本当なら、自宅のNASを20TB構成くらいにして運用しているはずなのだけど、いざ実現しようとすると、今の価格感では現実味がない。しかも、“そこまで必要じゃない”という微妙な状況だからこそ、余計に踏み出せずにいる。
必要なようで、実はそこまで必要じゃない。でも、足りなさを感じてしまう。そんな中途半端な不満が、今の物価と為替と価値の混線に象徴されている気がする。
昔あった乳酸飲料「ローリーエース」はなくなり、今では色々とあって「ラブレ」になっていたらしい。
あのタイプの乳酸菌飲料は、今では「自分へのちょっとしたご褒美」としてヤクルトを買ってもいい、という感覚になって久しい。でも、子どもの頃はヤクルトなんて“選ばれた人の飲み物”みたいな存在で、とても手が届くものじゃなかった。
だからこそ、当時のあの味が、今ではもう思い出せない。懐かしいはずなのに、記憶の中では霞がかかったままだ。
セブンイレブンで「Dodgers Prime」というドリンクが売っていたので、試しに買ってみた。
原材料にはココナッツウォーターと書かれていたが、実際はブルーラズベリー味でびっくり。しかも甘味がものすごく強くて、そのままでは飲みきれず、水で割ってようやく口にできるレベルだった。おおよそ50%まで薄めると甘さは落ち着くものの、今度は風味が消えてしまって、なんだか勿体ない。
とはいえ、個人的にはこの味そのものはかなり好きだった。だからこそ、甘さだけを徹底的に抑えてくれれば、箱買いしていたかもしれない。徹底的に冷やせば少しは甘さが和らぐかもしれないが、今回は久しぶりに「体が拒否反応を示す」レベルの甘さで、逆に刺激的だった。