Bungieの『Marathon』ARGについて、日本語の情報がほとんど無くて、結局は英語圏の情報を漁ることになった。どうやら今はネット上での謎解きキャンペーンの真っ最中らしい、というところまでは把握できた。
ただ、この手のARGは「とんち」や「発想力」でどうにかなるレベルではない。実際のところは、音声データのスペクトラム解析や、ステガノグラフィーの読み解きのような、本格的に技術を駆使しないと進めないものばかりで、想像以上にハードな追い込み方が求められている。
こういった手法は『Destiny 2』にも似たような仕掛けがあって、なるべく目をそらすようにしている。というのも、通信内容をバイナリで引っこ抜いて、ディスアセンブルしてまで解析するような人たちが現れるので、「本気の通信」はもう、時間の問題で暴かれるものだという感覚がある。
……と思っていた矢先、YouTubeで「すべて解けました」という動画が上がっていた。案の定というか、やっぱりというか。
『Marathon』のデザインを眺めていると、どうしても The Designers Republic を思い出す。おっさん世代しか知らないかもしれないが、あの『Wipeout』で一世を風靡した、尖りまくったデザインハウスだ。30年以上前のデザインの系譜を、あからさまに引き継いでいるように見える。特に、サンセリフ体フォントの選び方や扱い方に、共通点が多い。
ゲームの核は「3人組でプレイするタルコフ」だという話も出ている。
つまり、Destiny 2 と同じく、うまくコミュニケーションが取れないと即敗北に繋がるタイプのゲームになりそうだ。そうなると、マッチングで中国系の「思い通りに遊べないなら妨害に回る」系ムーブに遭遇して、あっという間にやめる未来も想像できてしまう。
現時点では、著名なプレイヤーだけを招待してロケーションテストをしているという話もある。彼らにはすでに交友関係やプレイ習慣があるから、遊べる下地がある。けれど、新規ユーザーや、フレンドと定期的にプレイする文化が無い層に向けた導線や設計は……おそらくD2と同じで、何も用意されていないだろうと推測している。
Adoが歌で怒鳴っても気にならないのに、大森靖子がシャウトすると不快に聞こえるのは、いったい何が違うのかと考える。
おそらく、歌詞や声のニュアンスを通して、自分の中にある不快さや怒りのような感情を、関係のない相手にぶつけているように感じるからだと思う。それはまるで、他人の喧嘩を無理やり視界にねじ込まれているような感覚で、たとえ正論でも、自分とは関係のない誰かの生々しい都合を一方的に押し付けられることへの不快さがある。
Adoの場合、その怒りや激情が舞台装置として成立していて、あくまでパッケージされた表現としてこちらに届く。だからこそ、ある種の距離感が保たれていて、「人生に侵食してこない」気持ちよさがあるのだと思う。
若い頃に、興味もないおっさんの愚痴や事情を延々聞かされて辟易した経験と、似ているのかもしれない。そして今、自分がおじさんになった側でも、同世代の愚痴を聞かされるのはやはりしんどいし、別世界にいるような人が「世界代表」の顔でズレた話をしているのを見ると、引っ込んでてくれと思ってしまう。それもまた、自分の性分なんだろう。
ちなみに、街録チャンネルはどうしてもオープニングのテンションが無理なので、毎回そこだけ飛ばして見ている。
体育会系が悪いわけじゃない、というか、あらためてフラットに考える時間があった。
この歳になってようやく気づいたのは、彼らが社会で一定の評価を受けるのは、「教育ができる」「面倒が見られる」といった、他人に干渉できるスキルを持っているからだということ。出来ない人をどう補うか、その人の力量を見て、チーム全体としてのパフォーマンスをどう引き出すか。そういった工夫や発想ができるから、自然と信頼され、優遇される場面も増えていくのだと思う。
一方で、文化系の世界は個人の能力勝負が基本で、「チームで何かを成す」というよりは、ボクサーのように孤独な戦いを強いられがちだ。もちろんサークルや部活といった枠組みはあるが、そこに「仕組み」や「支え合い」の文化が根づいているかというと、少し疑わしい。だからこそ、誰かを助ける力や場を整える意識よりも、「自分がどうするか」が優先されがちになる傾向があるようにも思う。
そう考えると、体育会系の構造に近いのは、ある種の宗教かもしれない。共通の価値観を持つことでコミュニティを運営しやすくし、連絡や協力もスムーズにする。一方で、個人主義が強く、金銭や成功の独占が人生の軸になっているような場合は、どうしても孤立リスクが高まっていく。今になって、その仕組みが少しずつ見えてきた気がする。